Translate

2026年9月11日金曜日

ビージーズ



 ビージーズはオーストラリアで結成されたグループで、60年代から70年代にかけて活躍しました。しかし、60年代と70年代では、音楽性が大きく変化しています。

60年代は、ギブ3兄弟を中心とした、いわゆるソフトロックのグループとして、数多くのヒット曲を生み出しました。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「ジョーク」「ワーズ」「ホリデイ」などが代表曲です。特に日本では、映画「小さな恋のメロディ」の挿入歌「メロディー・フェア」が大ヒットしました。

この映画は、中学校の頃、学校主催の映画鑑賞会で上映され、初めて観た記憶があります。イギリス映画ですが、本国ではあまりヒットしなかった一方、日本では主演の子役二人の可愛らしさが受け、映画もヒットしました。

70年代のビージーズは、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックに収録された「恋のナイト・フィーバー」「ステイン・アライブ」などが大ヒットしました。このサウンドトラックは、後にマイケル・ジャクソンの「スリラー」に抜かれるまで、世界で最も売れたアルバムだったそうです。

大学の同窓生も当時、ジョン・トラボルタにハマり、あのポーズをしていましたが、今も元気でしょうか。

ビージーズの近況について調べてみました。

ビー・ジーズは、現在グループとしての活動は終了しており、現在は過去の功績の再評価と遺産の継承が行われています。

メンバーの現在と「最後の生き残り」バリー・ギブ

ビー・ジーズはギブ家の3兄弟(バリー、ロビン、モーリス)を中心に活動していました。しかし、2003年に三男のモーリスが53歳で急逝し、2012年には双子の弟であるロビンが62歳で病没しました。

唯一の生存メンバーとなった長兄のバリー・ギブ(Barry Gibb)はソロ活動を続けています。2018年には音楽界への貢献により英国王室からナイト(爵位)を授与され、「サー・バリー・ギブ」となりました。2021年にはビー・ジーズの名曲をカントリー界のスターたちとセルフカバーしたソロアルバム『Greenfields』をリリースし、ソロとして初の全英アルバムチャート1位を獲得するなど、変わらぬ影響力を証明しています。また、近年も「ケネディ・センター名誉賞」を受賞するなど数々の栄誉に包まれています。

ドキュメンタリー映画と伝記映画プロジェクト

近年のビー・ジーズ再評価の大きな契機となったのが、2020年に公開された公式ドキュメンタリー映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡(原題:How Can You Mend a Broken Heart)』です。グループの光と影、兄弟の絆を丁寧に描き出し、批評家・ファンから高い評価を受けました。また、ハリウッドでは彼らの波乱万丈な生涯を描く伝記映画の制作プロジェクトも進行しており、長年にわたり世界中で注目を集め続けています。

SNSとストリーミングでの再ブレイク

『Stayin' Alive』や『How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)』などの代表曲は、TikTokなどのSNSで楽曲がトレンド化し、Z世代をはじめとする若い世代のリスナーの間でも再発見されています。

かつてのディスコの象徴という枠を超え、ポピュラー音楽史上屈指のソングライティングチームとして、ビー・ジーズの楽曲群は今なお世界中で愛され聴き継がれています。

2026年9月10日木曜日

クイーン


70年代に活躍したクイーンの特徴は、フレディ・マーキュリーのボーカルと、ブライアン・メイのギターにあります。フレディ・マーキュリーのボーカルは伸びのあるしっかりした声で、ブライアン・メイのギターは、当時シンセサイザーと間違われることもあった、特徴的な音色でした。

あまりにシンセサイザーと間違われるため、アルバムには「No Synthesizers(シンセサイザーは使用していません)」とクレジットされていたほどです。

デビューからしばらくは欧米ではそれほど人気がなく、批評家からも酷評されていたクイーンですが、デビュー当時から日本での人気は高く、75年の来日コンサートは大成功でした。

アメリカでも、後に映画のタイトルにもなった「ボヘミアン・ラプソディ」が映画「ウェインズ・ワールド」の挿入歌となったことをきっかけに、人気に火がついたと言われています。

個人的には、デビューからアルバムを買い続けたほど好きなバンドの一つで、特に暖炉に使われていたマホガニーを素材にしたギターの音色が大好きでした。

クイーン自体も日本向けに日本語の曲を発表するなど、親日家でもあったようです。

クイーンと日本との関係を掘り下げてみましょう。

クイーンは、デビュー初期から日本と非常に深い絆を結んできました。その関係は単なる「ツアー訪問地」を超え、互いに対する強い愛着とリスペクトに満ちたエピソードで溢れています。

絆の始まり:1975年の初来日

1970年代前半、母国イギリスや全米での評価がまだ確立しきっていなかった頃、日本の音楽雑誌『MUSIC LIFE』などを通じていち早く彼らの魅力を見出したのが日本のファン(特に女性層)でした。

1975年4月、初の来日を果たしたメンバーを羽田空港で迎えたのは、3,000人を超える大観衆の悲鳴と歓声でした。ブライアン・メイが「まるでビートルズになった気分だった」と語るほどの熱狂的な歓迎を受けたメンバーは、一躍大スターとして扱われたことに深く感動し、日本を特別な国として胸に刻むことになります。日本武道館での初公演では、ステージ上で着物を羽織って演奏を披露する場面もありました。

日本への感謝を込めた名曲「手をとりあって」

日本のファンから受けた情熱的な愛に応えるため、ブライアン・メイは1976年発表のアルバム『華麗なるレース』のために楽曲「手をとりあって(Teo Torriatte / Let Us Cling Together)」を書き下ろしました。

この曲のサビには「手を取り合って このまま行こう 愛する人よ」という日本語の歌詞がそのまま取り入れられています。英語圏のトップアーティストが日本語詞入りの楽曲をリリースするのは非常に異例であり、長年にわたり日本のファンへの感謝を伝えるシンボルソングとして愛され続けています。

フレディ・マーキュリーの深すぎる「日本愛」

ボーカルのフレディ・マーキュリーは、音楽活動を通じてだけでなく、プライベートでも熱狂的な親日家として知られています。

  • 美術品・骨董品の収集:ツアーやプライベートで来日するたびにデパートや骨董品店を訪れ、伊万里焼の磁器、伊東深水などの浮世絵、着物などを爆買い(本人は「倒れるまで買え」をスローガンにしていた)していました。

  • 自宅の日本庭園と和室:ロンドンの邸宅「ガーデン・ロッジ」には、日本の職人を呼び寄せて本物の日本庭園を造園させ、錦鯉を飼い、和室まで作らせました。

  • こだわり:パートナーと忍びで来日した際、お風呂に入ろうとしたパートナーに対し「ここは日本なのだから、体を洗ってから入るのがルールだ」と注意したという几帳面な一面もありました。

現在まで続く絆

フレディ亡き後も、ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアダム・ランバートらをボーカルに迎えた「クイーン+アダム・ランバート」として何度も来日公演を行い、そのたびに「手をとりあって」を観客とともに大合唱しています。彼らにとって日本は、売れない時代から自分たちを信じ続けてくれた「第2の故郷」であり、その絆は世代を超えて今なお受け継がれています。

2026年9月9日水曜日

一発屋(one-hit wonder)

 

「一発屋」という言葉は、大きなヒット曲が1曲しかないミュージシャンのことをいいます。たいがいは、そのミュージシャンを馬鹿にしたようなニュアンスで使われていますが、よく考えてみれば、大ヒット曲があるというのは、それだけでも尊敬に値します。

世の中には星の数ほどミュージシャンがいますが、誰もが知っているヒット曲を持つミュージシャンは、1割にも満たないかもしれません。ヒット曲のないミュージシャンは埋もれてしまい、存在すら気づかれないのです。むしろ、「一発屋」は褒め言葉ではないでしょうか。

大ヒット曲があるものの、ほかの曲を知らないというケースで、私がすぐに思いつくのは、以下のミュージシャンと曲です。もちろん、ほかにもヒット曲があるのに、私が知らないだけという可能性はありますが。

ザ・ナック……「マイ・シャローナ」

ピーター・フランプトン……「ショー・ミー・ザ・ウェイ」

ディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ……「カモン・アイリーン」

バグルス……「ラジオ・スターの悲劇」

もちろん、上記以外にもたくさんの曲がありますが、みなさんが思いつく「一発屋」といえば、どんなミュージシャンや曲でしょうか。

※動画をアップしたのでよかったら見てください。


音楽シーンにおいて「一発屋(英語圏ではワン・ヒット・ワンダー)」とは、一度だけ、あるいは一時的に驚異的な大ヒットを記録しながらも、その後はそれに匹敵する商業的成功を収められなかったアーティストや楽曲を指します。国内外で人々の記憶に強烈なインパクトを残した代表的な一発屋ミュージシャンたちをご紹介します。

  • 日本の代表的な一発屋アーティスト

    • 子門正人(「およげ!たいやきくん」):1975年に発売された童謡・企画シングルでありながら、日本のシングル史上最大の売上枚数(オリコン公認で約457万枚)を記録した歴史的ヒット曲です。国民的ブームとなりましたが、歌手本人は表立ったメディア露出を控えたこともあり、この曲の巨大な印象が強く残りました。

    • 久保田早紀(「異邦人」):1979年にリリースされたデビュー曲が、エキゾチックなメロディとミステリアスな世界観で爆発的な大ヒットを記録しました。のちにタイアップ曲やアルバムを発表し、シンガーソングライターとして活動を続けましたが、このデビュー曲の圧倒的な知名度から代名詞的な存在として語り継がれています。

    • 円広志(「夢想花」):1978年に「飛んで飛んで飛んで…」という強烈なフレーズとリズミカルなメロディで大ヒットを飛ばしました。現在は関西を中心にタレントやコンポーザーとしてマルチに活躍していますが、シンガーとしての代表作といえば今なおこの曲が挙げられます。

    • KAN(「愛は勝つ」):1990年にリリースされた楽曲が、前向きなメッセージと美しいメロディでミリオンセラーを達成し、日本レコード大賞を受賞する大ヒットとなりました。その後も独自の音楽性を追求した良質なポップスを発表し続けましたが、世間一般のパブリックイメージとしては一発大ヒットの印象が強く残る形となりました。

  • 海外(洋楽)の代表的なワン・ヒット・ワンダー

    • ロサンゼルスのオルタナティヴ・ロックバンド、ロス・デル・リオ(「マカレナ」):1995年に発表されたリズミカルなダンス曲は、世界中で「マカレナ・ダンス」を伴う歴史的社会現象を起こし、全米ビルボードチャートで14週連続1位を記録しました。あまりにも強烈な一発だったため、世界的なワン・ヒット・ワンダーの代名詞とされています。

    • リック・アストリー(「Never Gonna Give You Up(ギヴ・ユー・アップ)」):1987年のデビュー曲が世界各国でチャート1位を獲得しました。ソウルフルな低音ボイスで一世を風靡したのち、2000年代以降はインターネットミーム「リックロール」の定番として再び世界的な知名度を得ることになりました。

    • ナールズ・バークレイ(「クレイジー」):デンジャー・マウスとシーロー・グリーンによるプロジェクトが2006年に発表した楽曲で、全英チャートで歴史的なロングヒットを記録するなど世界を席巻しました。その後も個々の活動やヒット曲はありますが、この曲の圧倒的なインパクトからは一発屋的に語られることがあります。

    • バルタリ(「ジプシー・ウーマン」):1991年に発表したハウスミュージックの歴史的名曲であり、キャッチーな「ラ・ダ・ディ、ラ・ダ・ダ」のフレーズで世界中のクラブシーンとチャートを席巻しました。

一発屋と呼ばれるアーティストたちの多くは、音楽的才能に欠けていたわけではなく、むしろ時代のニーズや偶然のケミストリーが奇跡的に噛み合った結果として、後世まで語り継がれるほどの巨大な金字塔を打ち立てた人々です。