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2026年9月14日月曜日

テクノポップ

 

個人的に昔から電子楽器の音が好きだったため、プログレッシブ・ロックが好きになったのか、それともプログレッシブ・ロックの影響で電子楽器が好きになったのかはわかりません。しかし、そのことがきっかけでテクノポップも好きになったのは、ある意味で必然だったのかもしれません。

テクノポップの代表といえば、まずYMOが思い浮かびます。初めてプログレッシブ・ロックを聴いたときと同じように、大きな衝撃を受け、夢中になった覚えがあります。YMOは日本だけでなく世界的な人気を獲得し、海外ツアーも行っています。

YMOの曲をマイケル・ジャクソンがカバーしたことを知ったのは、かなり後になってからでした。正確には、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」をエリック・クラプトンがカバーし、さらにその曲をマイケル・ジャクソンがカバーした、という流れのようです。

海外の著名なミュージシャンが日本の曲をカバーする例はほかにもあるかもしれませんが、複数の世界的なミュージシャンにカバーされた例は、そう多くないのではないでしょうか。

YMO以外では、ドイツのクラフトワークも好きです。「アウトバーン」や「ショールーム・ダミーズ」などは日本でも有名ですが、クラフトワークはYMOよりも前に結成されているため、YMOに影響を与えたミュージシャンの一つと言えるでしょう。

※70年代のテクノポップの雰囲気を残してSunoでアルバムを作ってみました


◆テクノポップの歴史

テクノポップ(Technopop)は、シンセサイザーやシーケンサー、ボコーダーといった電子楽器を前面に押し出した、キャッチーで未来的(レトロフューチャー)なポピュラー音楽のジャンルです。1970年代後半の誕生から現在に至るまで、音楽シーンに大きな影響を与え続けています。

  • 誕生と世界的な台頭(1970年代後半) テクノポップの原点は、ドイツの電子音楽グループ「クラフトワーク」にあります。彼らがアコースティック楽器を排し、電子音のみで構築したポップミュージックを提示したことがすべての始まりでした。 この潮流を決定づけたのが、1978年に日本で結成されたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)です。細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人は、コンピューターによる自動演奏(打ち込み)と鋭いポップセンスを融合させ、世界中で大ブレイクを果たしました。

  • 代表的エピソード:世界を驚かせたコンピューター演奏 YMOの初期の海外ツアーにおいて、シンセサイザーやシーケンサー(当時は大型で高価な機材)をステージ上に並べて自動演奏させるスタイルは、当時の音楽関係者に大きな衝撃を与えました。生演奏が当たり前だった時代において、コンピューターが正確無比なリズムを刻み続けるステージングは「未来の音楽がやってきた」と絶賛され、世界中に「テクノポップ」という概念を一気に浸透させました。

  • 日本での大ブームと「テクノ御三家」(1980年代) 1980年代に入ると、YMOの成功に触発されたニュー・ウェイヴ系のバンドが続々と登場します。特に「テクノ御三家」と呼ばれたプラスチックス、ヒカシュー、P-MODEL(平沢進ら)は、それぞれ個性的なアプローチでインディーズ・シーンや若者文化を牽引しました。 さらにこのサウンドは歌謡界にも急速に波及。「テクノ歌謡」と呼ばれるジャンルが生まれ、アイドルや歌謡曲の楽曲にシンセサイザーの打ち込みやボコーダーが多用されるなど、お茶の間の定番サウンドとなりました。

  • ニュー・シンセポップと多様化(1990年代〜2000年代) 1990年代以降、本場のテクノやハウス・ミュージックがダンスフロアを中心に進化する一方で、テクノポップのキャッチーな精神は「シンセポップ」などの形で脈々と受け継がれます。2000年代半ばには、プロデューサーの中田ヤスタカが手がけるPerfumeが登場。オートチューン加工を施したボーカルとエレクトロサウンドを完璧なダンスパフォーマンスと融合させ、テクノポップを再びメインストリームの頂点へと押し上げました。

  • 現代への継承(2010年代以降〜現在) 現代では、VOCALOID(初音ミクなど)を用いたボカロ曲や、現代のDTM制作によるポップスにその遺伝子が色濃く受け継がれています。無機質な電子音と人間の親しみやすいメロディの融合というテクノポップの魅力は、今なお形を変えながら世界中のクリエイターやリスナーを魅了しています。





2026年9月12日土曜日

イージーリスニング


イージーリスニングというジャンルは、50年代からあったようです。和製英語のような印象を受けますが、実はイギリス発祥のジャンルです。個人的にはハードな曲が好きで、若い頃はイージーリスニングにはまったく興味がありませんでした。

もちろん、ポップな曲やフォークソングは嫌いではありませんでしたが、イージーリスニングは「毒にも薬にもならない音楽」だと決めつけて、興味が湧かなかったのです。

日本でイージーリスニングといえば、ポール・モーリア、レーモン・ルフェーブル、グレン・ミラーなどの、オーケストラをバックにした曲を思い浮かべる人が多いでしょう。

「真珠の首飾り」などは、誰でも一度は耳にしたことがあるはずです。

イージーリスニングを「毒にも薬にもならない」と表現しましたが、今にしてみると、この特徴こそが人をリラックスさせ、集中力を高めるのではないかと思っています。

ハードな曲をBGMにして勉強や読書をする姿を想像してみれば、私が言いたいことは伝わるでしょう。

※リラックスできる曲を集めた動画です。読書、勉強、作業のお供にどうぞ。


◆イージーリスニングとは

イージーリスニング(Easy Listening)は、過度な緊張感を与えず、リラックスして聴くことができるポピュラー音楽のジャンルです。1950年代から1970年代にかけて世界的な黄金期を迎え、独自の発展を遂げてきました。

  • 誕生と発展(1950年代〜1960年代)

    1950年代のアメリカやヨーロッパにおいて、ラジオ放送の普及やステレオ録音技術の進歩を背景に確立されました。かつては「ムード音楽」とも呼ばれ、パーシー・フェイスやマントヴァーニといったオーケストラ指揮者たちが、クラシックやポピュラーソングを洗練されたインストゥルメンタル(器楽曲)へと編曲したことが始まりです。ストリングス(弦楽器)を前面に出した華やかで心地よいサウンドは、日常のBGMとして親しまれました。

  • 黄金期と代表的エピソード(1960年代末〜1970年代)

    1960年代後半から1970年代にかけて、フランスを中心とした「グランド・オーケストラ」の時代が到来します。ポール・モーリアやレイモン・ルフェーヴル、フランク・プゥルセルらがシーンを牽引しました。

    この時代の象徴的なエピソードとして、ポール・モーリア楽団の「恋はみずいろ(Love Is Blue)」が挙げられます。1967年のユーロビジョン・ソング・コンテストに出場したボーカル曲を、彼が優雅なチェンバロの音色を取り入れたインスト曲へ大胆にアレンジして発売したところ、1968年に全米チャート(ビルボード)で5週連続1位を記録する快挙を達成しました。歌のないイージーリスニング曲が全米1位を獲得するのは非常に珍しく、世界的な大ブームを巻き起こすきっかけとなりました。

  • スタイルの変化(1970年代末〜1980年代)

    1970年代末からはリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」に代表されるような、ピアノをフィーチャーした爽やかなソロ・スタイルの作品が人気を集めます。また、ディスコビートを取り入れたポップなアレンジが増えるなど、時代のトレンドを取り入れながら形を変えていきました。

  • 現代への継承(1990年代以降〜現在)

    時代の変化とともに大編成のオーケストラによるブームは落ち着きましたが、イージーリスニングの精神は途絶えていません。1980年代後半以降の「ニューエイジ・ミュージック」や「ヒーリング・ミュージック」、さらにはカフェBGMや作業用BGM、Spotifyなどのストリーミングサービスにおけるリラックス系プレイリストへとその役割を引き継いでいます。

イージーリスニングは、単なる背景音楽にとどまらず、優れた編曲技術とメロディの美しさで、現在も人々の日常生活に寄り添い続けています。

歌謡曲とポップス


60年代から80年代の日本には、「歌謡曲」というジャンルがありました。歌謡曲は、作詞・作曲の専門家がいて、歌手に曲を提供するというシステムが基本だったため、J-POPのようにミュージシャン自身が作詞・作曲をするのではないという特徴があります。

60年代には、今でいうバンドの形態をとっていた「グループ・サウンズ」と呼ばれるジャンルもありましたが、これも歌謡曲と同じように、作詞家・作曲家が曲を提供していたため、実質的には歌謡曲に含まれるものと考えられます。

ただし、フォークソングと呼ばれていたジャンルや、後期のグループ・サウンズでは、自作の曲を発表するミュージシャンもいました。歌謡曲と区別するために、「シンガー・ソングライター」という言葉も使われていました。

自作ではないからといって、歌謡曲を否定しているわけではありません。名曲も数多くあり、何より分業というシステムには、理にかなっている部分もあったからです。

大御所の作詞家・作曲家が少なくなったとはいえ、他のミュージシャンに曲を提供するというシステムは、今でも存在しています。

歌謡曲の分業制について詳しく調べてみました。

昭和の音楽シーンを支えた歌謡曲の黄金期は、作詞家、作曲家、編曲家、そして歌手がそれぞれの専門分野を分担する「分業制(プロフェッショナル作家主義)」によって成り立っていました。レコード会社や音楽プロデューサーの統括のもと、ヒット曲を効率的かつ組織的に生み出すこのシステムは、日本の大衆音楽の質を飛躍的に高めました。

役割分担による高いクオリティ

分業制の最大の強みは、各工程のプロフェッショナルが持ち場に専念できる点にありました。

  • 作詞家:阿久悠、なかにし礼、松本隆などの名だたる作家たちが、時代を映すドラマチックな詩や大衆の心をつかむストーリーを構築しました。

  • 作曲家:筒美京平、都倉俊一、遠藤実らが、耳に残るキャッチーかつ芸術性の高いメロディを紡ぎ出しました。

  • 編曲家(アレンジャー):馬飼野康二や船山基紀らが、海外のポップスやディスコ、オーケストレーションの要素を取り入れ、楽曲の音楽的な世界観や彩りを決定づけました。

この体制により、歌手は「歌唱・表現」に全力を注ぐことができ、アイドルから本格派の演歌・歌謡歌手まで、個性を最大限に引き出された楽曲が次々と世に送り出されました。

工業的なヒット曲の生産とクオリティの均衡

レコード会社が主導するこのシステムは、マーケティングやリスナーの流行を緻密に計算しながら楽曲を量産する、いわば「高品質な音楽の工業生産システム」でもありました。作家同士のライバル関係や、プロデューサーによる厳格な品質管理が働いていたため、商業的なヒットを狙いつつも、音楽史に残る芸術的な名曲が数多く誕生しました。

ニューミュージックやJ-POPへの移行

1970年代後半から1980年代にかけて、自ら作詞・作曲を手がける「シンガーソングライター」や、バンド自身が楽曲制作を行うニューミュージックが台頭します。さらに1980年代半ば以降、自分たちの表現したい音楽を追求するバンドブームや小室哲哉などのプロデューサー台頭を経て、音楽業界の主流は完全な分業制から、アーティスト自身が制作に関わるスタイル、すなわち現在の「J-POP」へと移行していきました。