「いや、実は小遣いは、――小遣いはないのに違いないんですが、――東京へ行けばどうかなりますし、――第一もう東京へは行かないことにしているんですから。……」
「まあ、取ってお置きなさい。これでも無いよりはましですから。」
「実際必要はないんです。難有うございますが、……」
粟野さんはちょっと当惑そうに啣えていたパイプを離しながら、四つ折の十円札へ目を落した。が、たちまち目を挙げると、もう一度金縁の近眼鏡の奥に嬌羞に近い微笑を示した。
「そうですか? じゃまた、――御勉強中失礼でした。」
粟野さんはどちらかと言えば借金を断られた人のように、十円札をポケットへ収めるが早いか、そこそこ辞書や参考書の並んだ書棚の向うへ退却した。あとにはまた力のない、どこかかすかに汗ばんだ沈黙ばかり残っている。
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